糟屋郡宇美町に、後保護指導所の跡地がある。
わたしの記憶では、立ち入り禁止ながら、建物も敷地もそのままのはず。
むかし結核は命を奪う恐ろしい病で、入院期間は長きに及んだ。
退院後すぐに社会復帰も難しかったのだろう。
しばらく、病院ではない、家ではない、保養所のようなところで、社会生活に備えて訓練というか、日常生活に慣れる準備期間をおいたのではないかと思われる。
敷地は広く、隠れた、桜の名所でもあった。
知る人ぞ知る。
結核が影を潜め、また治療薬が格段に進歩したこともあったのだろう、閉鎖になった。
所有者は福岡県。
長い時間を経て、時代が変わり、中国残留日本人孤児が、一期二期と、帰国してくるようになった。
戦後時間が経ったこともあり、一人の残留孤児が、結婚し子どもを設けて、孫ができ、数としては、終戦直後より何倍も膨れ上がった。
一族郎党で日本に帰国して来た。
生活習慣、言葉を教える施設が必要になった。
福岡県は、この、後保護指導所をそれに当てた。
その後、十何年かの月日を経て、残留孤児も終わりを迎えた。
施設はまた廃墟と化した。
平屋建て、木造、回り廊下、大昔の小学校のような施設は、変わらずあの場所に眠っているだろう。
朽ち果て始めているかもしれない。
何か使えないのか、もったいない。