ル ポ 虐 待 ・ 大 阪 ニ 児 置 き 去 り 死 事 件

著者 杉山春 (すぎやま・はる )
筑摩書房

2010年7月30日未明、大阪ミナミの繁華街のそばの、15平米ほどのワンルームマンションで、3歳の女の子と1歳8ヶ月の男の子が変わり果てた姿で見つかった。
斎藤芽衣さんは、この2人の子どもの母親だ。
この夏はとびきり暑かった。
子どもたちはクーラーのついてない部屋の中の、堆積したゴミの中で、服を脱ぎ、折り重なるように亡くなっていた。
内臓の一部は蒸発し、身体は腐敗し、一部は白骨化していた。
芽衣さんは、1月に名古屋から大阪に引っ越して以来、1度もゴミを捨てていなかった。
部屋と玄関の戸口には、出られないよう、上下2箇所に粘着テープが外側から貼られていた。
冷蔵庫は扉の内側にまで、汚物まみれの幼い手の跡が残されており、食べ物や飲み物を求めたのではないかと推測された。
大阪ミナミの風俗店でマットヘルス嬢だった芽衣さんが、子どもを残して最後に部屋をでたのは、6月9日。
その50日後、ゴミで埋まったベランダから部屋に入ったレスキュー隊に子どもたちは発見された。
芽衣さんはこの間、出身地の四日市や大阪で遊びまわり、その様子をSNSで、写真と文章を公開していた。
メディアは、フルメイク、ドレス姿の芽衣さんの写真を繰り返し流した。
風俗嬢としての営業用に撮影されたもので、男性を誘うような肢体や表情が強調されていた。
ニュースは、センセーショナルに報じられ、世間は激しく糾弾した。
芽衣さんは、我が子の死を目の当たりにした後、さらに男友達を呼び出し、ドライブし、関係をもった。
芽衣さんは、事件後長く「 解離性障害の疑い」で、大阪厚生年金病院の精神科医、森裕氏による精神鑑定を受けていた。
その結果、責任能力があると判定された。
なぜ我が子をネグレクトで死なせたのか、答えを見出すには、自分自身に向き合う長く厳しい作業と、治療の力が必要だろう。

児童相談所は、なぜ介入に失敗したのか。

もと大阪市中央児童相談所所長で、花園大学教授津崎哲郎氏が、語気を強め、机を叩いてこう述べた。
「 5月の時点で大阪市の児童相談所は介入に失敗した。これは完全に救えた事例です。」

児相の言い分・・・「 この事件の特異さは情報が全くなかった点です。
ふつうは、どこかの機関に何かしらの情報が入っていて、その上で査定を間違えて、タイミングが遅れて子どもが亡くなるというものだが、今回は全く分からなかった。」

わたしは以前、たしか10年ほど前だったか、充分な情報があったにも関わらず児相が手をこまぬいて、明らかに危険であると認知された子どもが、虐待により死亡したニュースを見た。
テレビで児相の所長が、言い訳とも弁解ともつかぬ歯切れのわるい口調で、もごもご謝罪しているのを見た。
人員の制限はあるにせよ、この程度の意識の低さなんだと、呆れたことがある。
反省などとは、程遠いものだった。北九州だった。

話を戻します。
その前、3月30日同じく児童相談所の、児童虐待ホットラインに電話をかけた、近隣住民がいた。
ここは、24時間体制で通報を受けるというものだ。
自分の名前は伝えなかったものの、マンション名と303号室まで伝え、「ほとんど毎晩深夜に、子どもが激しく泣いています。
母親は、子どもを置いて、働きに出ているのではないでしょうか。」
職員は、西区の子育て支援室に連絡を入れ、この部屋の住民名を照会したが、住民登録はなかった。
マンションを訪ねたが、オートロックで出ない。
郵便受けにはチラシがたくさん詰まっている。
翌日も同じだった。翌4月2日18時にも訪問したが、応答はなかった。

「これまでの経験では考えられなかった」

「子どもを家に残して帰ってこないことは想像できませんでした。」
またこれだ。
いったいこの方たちは、仕事をしているのだろうか。

話を芽衣さんに戻します。
寂しさが頂点に達すると、必ずオトコを求める。
ホストに夢中になって、ホストクラブで使った総額は50万ほどになり、返済を巡って仲はギクシャクする。

生いたち
四日市市である。コンビナートの街ではあるが、内陸に向かうに従って曲がりくねった田舎道へと姿をかえる。広々した伊勢平野の一角にその家はあった。

父親の話

父親は県立農業高校のラグビー部を率いて勤務していた。
近代化が早く進んだ四日市の高校は、類をみないほど学校格差が厳しくランク付けされていた。
父親が勤務するF校は、偏差値最下位に位置づけられていた。
家に農地がなくても成績や素行が悪く他校に進学できないという理由で入学してくる。
やる気のない生徒。規律を強める学校。
反発して暴れる生徒たち。
押さえ込もうとする教師の暴力的な管理。
父親は、母校の府立高校時代にラグビーと出会った。
3年の時ラグビー部は全国大会に出た。
しかし実家の経済状態から、大学進学後も出費の多いラグビー部には入部しなかった。
F校に就職した時、不良のたまり場だったラグビー部は廃部が決まっていた。
部員集めから行った。
厳しい練習に退部が続出、サボる生徒を追いかけて、駅で待ち伏せしたり、家庭訪問もした。
ポケットマネーで道具を買い足した。
受け持ちのクラスの子40人中11人が中退した。
父親は、地元の工場を一軒一軒回り、「使ってやってほしい」と頼んで回った。
父親は、女生徒からも人気があり、芽衣さんの母親は、熱心な追っかけだった。
父親は自分で、負けず嫌いだと語った。
F校のラグビー部は着実に力をつけ県大会で優勝する。このことは、学校全体の自尊心を噴きださせた。
生徒だけでなく家族がかわった。
口をきかなかった親が試合の送迎をする。
コンビニ弁当が、母親の手づくり弁当になった。
ラグビー選手の経験がなかった父親の指導法はハードで、練習時間が長く、夜10時のこともあった。
軍隊的と言われた。
18年間に15回花園出場を果たした父親の権力は絶対的だった。
負けることを許さなかった。
芽衣さんは、負けることを許さず、感情を閉ざして勝ち抜けることを良しとする価値観を背景に育った。

母親は、夫が花園出場して3年目に家を出た。
母親自身は子育てや家事能力がどの程度あったのか。
仕事にのめり込んでいた夫は、すこしは子育てを手伝ったのか。
実家の助けは得られていたのか。
母親には男がいた。
子供たちを連れて出た。
「おかあさんがいない」との芽衣さんの電話で父親は子どもの元を訪れた。
芽衣さんは、死んだ魚のような目をしていた。
そのころの写真は、弁護士の元にある。
髪は脂ぎってべとべと、服も着替えていなかった。
芽衣さんの娘の3歳のときの写真によく似ていた。
母親は、週に1・2回3番目の娘だけを連れて男のもとに行った。
上の子どもたちには、お金を置いて、コンビニ弁当を買わせていた。
弁護士 「 お母さんといっしょの記憶はありますか。」
芽衣さん 「 ありません。
いつも、お母さんは家にいませんでした。
一番下の妹を連れて、外出していた記憶はあります。
叩かれた記憶はありませんが、叩かれるのが怖くて嫌だった記憶はあります。虐待を受けた記憶はありませんが、お母さんが嫌なことをするという気持ちはありました。」
曖昧な記憶の理由は、解離的認知操作という視点から説明できるという。

「 芽衣さんには、細かいことは覚えてないけれど、そういう被害があったと証言することがとても多いです。
これは、逃避的な機能です。
実母のことも、虐待のようなことをされた記憶はあるが、具体的なことは覚えていない。
芽衣さんのトラウマ的な経験に対する処理の仕方ですね。
幼児期から身につけたものだと思います。」
自分を守るための、防衛規制だ。
そうすることで、自分では対処できない過酷な現実に直面しなくてすむからだ。
専門家は、裁判で、芽衣さんが幼児期に受けていた虐待は中〜重度に当たると証言した。

父親は、幼い娘3人と四人暮らしを始めた。
生活は厳しかったが、弱音は吐かなかった。
保育園の送り迎え、夕食、風呂入れ、夜中に持ち帰った仕事をする。
ラグビーと家庭、子育てを両立させようと必死だった。
だが、家の中はいつも片付かず、ベランダはゴミだらけ、風にのって臭いがした。
1年半ほど、そんな生活を続けて、再婚した。
その再婚相手には、女の子が一人いた。
活発な人で、週末だけ仕事をした。
食事作りは、父親の仕事だった。
運動会には、力を入れて弁当を作った。
どの家より立派な弁当にした。「 僕の卵焼きより、きれいなのは見たことがない。」
父親の話には、誰かと比較する内容が多い。
新しい母親との生活は幸せではなかった。
芽衣さん 「 その人は、自分の子どもだけを育てていました。
寝るときは、その子とだけいっしょに寝て、外出するときは、その子だけを連れていきました。」
父親 「 運動靴を買ってくると、一足だけブランドもの。
あとの三足はワゴンセールの、見るからに安物でした。」
兄弟間で差をつけるのは、虐待である。
結婚生活は、1年半で終わった。
離婚後、父親は急激にラグビーにのめり込んでいく。
理由は、子どもが小学校高学年になり、そんなに話さなくてもいいと思い、ラグビーに比重がいった。
つまり、芽衣さんは幼いときから、ほとんど誰にも話を聞いてもらったことがなかった。
誰かとともに時間を過ごす喜び、悲しさや寂しさに耳を傾けてもらい、ほっとすることなど、芽衣さんは知らないまま育った。
妹たちにとって、芽衣さんは母親代わりだった。
独身に返った父親には、絶えず女性との噂があった。
家にも呼んでいた。
親の恋人が、子どもに配慮なく訪ねてくれば、子供たちは身の置き所がない。自由に家から出ていくことさえできない時、子供たちは自室や自分のベッドの上で時間が過ぎるのを見を固くしてやり過ごす。

母親の話

芽衣さんは、小学校5年のとき母親と再会している。
外で会い、食事をして、母親の新しい家庭を訪ねると、知らない男性との間に、2人の弟がいた。
ショックは大きかった。
再会した母親はかつての怖い母親とは別人のように優しく見えた。
だが現実には母親は生きにくさを抱え、不安定だった。
中学生の芽衣さんの前に、手首に包帯を巻いて現れ、リストカットをほのめかす。
薬を大量に飲んだというメールが届くこともあった。
母親は、新たな結婚でも浮気をした。2人の弟を置いて、留守にする。

思春期

小学校時代は、ミニバスケで主将をやり、勉強もできた。
中学校に入って、非行。
きっかけは、「 おぼえていません。」

学校関係者の発言
「 芽衣さんはいつも友だちとは自分が上という力関係を作ろうとしました。
自分の方が秀でてないと人と繋がれない。
人間関係を力関係で見ているようなところがありました。」
強くなければいけない。
敗者であってはならない。
それからよく家出するようになった。
ふつうの子は家出しても4.5日もすると自分から帰って行く。
でも芽衣さんは、自分から帰ろうとはしなかった。
それだけ親父が厳しいからだと思っていた。
芽衣さんは仲間に、父親について話すことはあった。
母親について話すことは、一度もなかった。
当時の仲間は言う。
「 芽衣はよく嘘を言う。
その嘘は、人を困らせる嘘ではなく、自分を盛る嘘だった。」
芽衣さんは男子に求められると、すぐに体の関係になった。
友だちの彼氏を平気で取って、よくトラブルになった。

十分なケアを受けられず、強い依存欲求を抱えて成長する女性たちは、母となったあと、孤立するとネグレクトを引き起こす可能性が高まる。
自分自身を守れず、したがって我が子を守る力がない。
芽衣さんの生育歴の中に、ネグレクトの種は撒かれていた。

消された集団レイプの記憶

我が身を守れず、頼る者を周りに持たない若い女性は、過酷な体験に出合う可能性も高い。
中ニのとき、顔見知りのおとこたちに山に連れて行かれ、殴られ、蹴られ、集団レイプも受けた。
性暴力は恐怖の体験で、心に負う傷は深い。
自分が信じられなくなり、価値観の方向感覚が失われる。
そんなことをまだ自我が出来上がらないうちに体験する。
芽衣さんはこの日の夜、大量に服薬して病院に運ばれている。
事件後の取り調べでは、この体験の記憶はうっすら、かろうじて思い出した。幼児期に身につけたトラウマに対する対処方法だ。
父親も知らなかった。
彼女を支える人はいない。そんな状況を生き延びた。

困難に直面すると、「 飛ぶ 」

芽衣さんは、仲間内で揉めたりすると、ふっといなくなる。
学校でもそう。
嘘がばれて、友だちとトラブルになると、すぐに学校を飛び出した。
単発で人とつながることができても、継続的につながることは難しかった。

専門家は、「 解離の病理のため 」だと言った。
学校は、芽衣さんの父親に、「 もっと芽衣さんの話を聞いてほしい。」と伝えたかったという。
父親は、「 自分も、非行に走った子どもたちを、厳しくラグビーの練習に打ち込ませ、自信を持たせることが大事だ。」と、取りつく島もなかったらしい。決して、弱みを見せない父だった。
しかし、家出した芽衣さんをその都度探して、連れ帰っている。

高校時代

父親の勤めるF校の入試を落ち、首都圏のベッドタウンにある、健常児と自閉症児、不登校経験者など、現行の学校教育に馴染めなかった生徒も多い学校だった。
芽衣さんは在学当時ラグビー部のマネージャーだった。
父親に連れられて、試合や合宿に行っていたため、ラグビーの知識は豊富だった。
駅前の理髪店の二階に下宿していた。
学校の寮に住む予定だったが、約束の時間に来ない、約束を守らない、嘘をつくためかなわなかった。
入学直後から家出をした。10回を下らなかった。
「 負荷がかかり、一定の状態になると、いなくなった。私たち教員は、ブレーカーが落ちると言っていました。
逃げ出して、長くて1ヶ月、短くて2週間で、居場所をにおわすメールが届く。

高校1年の時、中学の仲間と、見ず知らずの女子大生を車に押し込め、財布を奪って、少年院に入っている。
その鑑別の際、「 解離性の人格障害の疑いあり」と言われたにもかかわらず、治療は行われなかった。

専門家は言う。
「これまでの生育歴の中で、芽衣さんの治療は可能だったのか?」
「 可能だったと思われる。
芽衣さんには、情緒的な結びつきの対象がいなかった。
治療では、きちっとアタッチメント対象を作ることが重要です。
誰との関係を重視して、芽衣さんを育てていけばいいのかが明確になれば、事態は変わった。
10代半ばでも間に合います。
十分な知識と支援体制があれば、少年院時代に、そのきっかけは作ることができたのではないかと思う。」

就職

高校の先生のはからいで、地元の割烹店のホール担当として働き始めた。
そこで、大学生に出会い、付き合いが始まる。
19歳の恋愛経験に乏しい、素直な青年だった。
法廷で、芽衣さんは夫に少年院に入ったことも話していた。
嘘はついていない。
彼は、過去は過去だと言った。それからまもなく妊娠した。
芽衣さん 「 妊娠するようにしました。早くママになりたかった。お嫁さんになりたかったのとはちがいます。」

心理鑑定をした西澤哲氏は、ここに注目した。「 自分が満たされなかった子ども時代を穴埋めしたいから、乳幼児期の自分を満足させたいからだ。」

夫の実家で暮らし始めた。夫は大学を退学し、働き始めた。
70代後半の祖母、40代後半の、共働きの両親、20代前半の夫と、その二人の弟たちが暮らす、四日市市の農家だった。
20歳の誕生日の一週間後に、長女あおいちゃんを出産した。

「 あおいを抱いているんだけれど、何かに私自身が抱かれている感じがしました。」

裁判で、前述の西澤氏はこのことを大きく取り上げた。
「 芽衣さんは自分をあおいちゃんに重ねている可能性があった。」
それが、子どもたちを置き去りにした時、我が子を人目から隠し通したことに深く繋がっていく。
誰からも放置されている我が子が受け入れられない。
つまり、誰からも放置されていた幼い頃の自分自身を直視できないのだ。
裁判で、芽衣さんは、幼い子どもの元に帰らなかったのは、二人が嫌だったのではなく、子供たちの周囲に誰もいないというその状況が嫌だったからだと、繰り返し述べている。
出産後芽衣さんは、子育てに熱心だった。
布おむつを使い、母乳にこだわった。
子どもの思いに寄り添う母親でもあった。

この時点で、西澤氏は、「 子どもの視点に立った育児ができていた 」と評価している。
育児教室、妊婦健診、乳幼児健診、育児サークルなど、公的機関が提供する支援はすべて受けた。

義母との関係は深かった。
その後親子3人は、夫の実家から車で10分ほどの2DKに引っ越した。
夫は、派遣から正社員になった。
義母とは、2日に1回は、行ったり、電話で話したりした。夫抜きで、ランチや買い物、温泉に行ったりした。
裁判で、関係を聞かれ、「 本当のお母さんみたいでした。」とすすり泣きながら答えた。
自分の両親との交流はなかった。
芽衣さんにとって、この時期「母親」は義母だった。
さらに、完璧な母親でありたいという願いが強かった。
ただし、義母は、息子の嫁が内面に抱えたバランスの悪さに無頓着だった。
この頃、周囲の大人たちは芽衣さんの成長を感じ取ったかもしれない。
しかし、生後10ヶ月の子どもを抱え、さらに妊娠初期であった女性にとって、頑張りすぎのように見える。
芽衣さんは自分を守る力を持っていたか。周囲の期待を敢えて無視すること、それが時には、我が子を守ることにもなる。それが、芽衣さんにはなかった。

離婚

2008年10月、長男、環くんを出産。あおいちゃんは、第二子の出産を理由に近所の保育園に預けた。
子育ては丁寧だった。
子どもたちに可愛い服を着せ、育児を楽しんだ。
だが、環くん出産後、人間関係のトラブルで、ママサークルを抜ける。
小中学校時代の独身の女友達と遊ぶ機会が増える。
この頃から、DVDを借りに行ったまま帰らない、トイレに長時間こもって出てこないという行動が頻繁になる。
そして理由のない浮気をした。

西澤氏は、理由のない浮気にも、解離の影響を見ている。
「 芽衣さんの場合、状況が良くても長続きしない。
自分から壊してしまう。
良い状態でも耐えられず、悪い芽衣さんが出てきて、浮気をしたり、子どもを置いて出て行ったりする。
一定の状態が長続きせず、交替して出て来る 」
その後も浮気は止まなかった。
家の中は、最悪になった。
さらに、消費者金融から、50万の借金、夫が会社から預かっていた20万が消えていた。
家族の怒りは極まった。
借金については、法廷で、「 生活費に使った。生活費が足りないと夫には相談しなかった。
相談すると、よい奥さんと思われないから。」
よい奥さんと思われることが、重要だった。
困難で惨めな自分の姿を認めることができない。

離婚の話し合い

あおいちゃんの2歳の誕生日を理由に、家に帰ると夫に電話した。
帰ったところ、夫、その両親、芽衣さんの父親、その交際相手までが勢揃いしていた。
予期しない家族会議が始まった。
この時点で、夫には離婚の意思はなかった。
「 やり直したい。」と言った。
「 やっていけない。」と言ったのは、芽衣さんの方だった。
本心は、離婚したくはなかった。
「 皆に責められていると感じて、その場から逃げ出したかった。」
芽衣さんの父親
「芽衣さんの夫の実家側は、離婚ありきという姿勢で、話し合いの余地はないと感じた。
自分も、芽衣が子どもを放ったらかしにして家を出たのは許せない。
浮気も、借金も。
芽衣さんの姿が、自分の元妻に重なり、冷静に娘や孫を守る立場に立てなかった。」

この席で、当事者である芽衣さんと、その夫の本心を聞き取ろうとする姿勢が、大人の側には希薄だった。
そして、あまりにもあっけなく、離婚は決まった。

芽衣さん 「私には育てられないと思いました。
今まで働いたこともないし、皆の協力があったから、やってこれてたことはわかってたんで。」
でも、母親から引き離すことはできないと、皆に言われた。
だから、「 育てられないということは、母親として、言ってはいけないことなんだと思いました。」

社会経験に乏しい、若い母親が、経済的に自立して、たった一人で、二人の幼い子どもたちを育てることは、とても難しい。
苦しいときは、子どもを人に預けてもいい。
芽衣さんは、自分の考えを口にすることができなかった。
自分の考えは、信用できないものだから。

元芽衣さんの夫「 経済的に考えれば、自分が引き取った方がいいかなと思いましたが、芽衣は、無理だ、引き取れないとは言わなかった。
いつの間にか、その場にいない、芽衣さんの母親に世話になることが決まった。
だがこのとき、芽衣さんの母親が、子育てができる状態にあるのか確かめた形跡がない。
交際相手と一緒に参加していた、芽衣さんの父親側からも、子どもを引き取るという声は、最後まで上がらない。

離婚が決まった、この話し合いの席で、養育費や、子どもたちの安全や、面会の話は一切出なかった。
子どもにとって、何がいちばん幸せなのか、という視点で、言葉が交わされた形跡はない。

一審裁判長 「 被告人が、離婚して子どもらを引き取ることが決まった際、子どもらの将来を第一に考えた話し合いがなされておらず、このことが、本件の悲劇を招いた遠因であると言え、被告人を非難するのはいささか酷である。」

話し合いの後、芽衣さんは義母に精いっぱいのことを言っている。
「 おかあさん、あおいと環のおばあちゃんは、一人ですから、これからも頼みます。」
言葉を奪われた芽衣さんの、子どもをなんとか育てていきたい、助けてほしいという精一杯の意思表示に見える。
この時点で、芽衣さんは実母には、子育ての手助けは頼めないことは、わかっていたと思われる。
このとき芽衣さんは、子どもをしっかり育てる、しっかり働きます、借金は返します、ウソはつきませんなどなどの、誓約書まで書かされている。
養育費はいっさい払われなかった。

芽衣さんの夫は、話し合いといえば、必ず両親を伴うような人間だった。
親の感情には、素直に従った。
その後の話し合いで、一族は、芽衣さんと子どもたちを、当時芽衣さんと付き合っていた男の元に届けている。
見知らぬ男性の元に、我が子を置いていく。
それを心配する祖父母もいない。
相手の男は、学生だった。
ミルク代も残して行かなかった。
夫が帰った直後、「 現実的に考えたら、無理だ。」と言った。
芽衣さんと子どもたちは、厄介な荷物だった。

行政の対応

その直後、芽衣さんは、菰野町役場を訪ね、離婚届と転出届を出している。
この時、転居先で、児童扶養手当の手続きをするよう助言を受けている。
桑名市に転入届を出し、保健福祉部子ども家庭課に、児童扶養手当を申し込んでいる。
だが、前年無収入だったことを証明する収入証明を揃えてなかったため、受理してもらえなかった。
その後現れないので、職員は手続きをしてほしい旨文書を送付した。
「 宛てどころに尋ねあたりません」と判を押されて戻ってきた。

事件から半年後、桑名市役所に話を聞いている。
「 扶養手当の手続きを放棄するなんて、ほとんどないですね。2人いれば、1ヶ月66710円。それが4ヶ月分で、25万を超える。滅多にないケースだった。」

またまた聞いた。「 めったにないケース 」

桑名市には、気がかりな子どもをワンストップで扱う、子ども総合相談センターがあった。
センターは、民生委員に訪問してもらったが、暮らしている様子はなかった。同市では、翌年中央保健センターが、同じ住所に、環ちゃんの一歳半検診の通知を出している。
「 宛てどころに尋ねあたりません 」
保健センターの担当者 「 書類が戻ってくることは滅多にありません。」
保健師が訪問して、行方知れず。
保健センターはその旨を子ども総合相談センターに報告し、対応を終えた。

滅多にない出来事が、芽衣さん家族を巡って、二度あったわけだ。
その後行政が、子どもたちを探すことはなかった。
これが、桑名市子ども総合相談センターの仕事ぶりである。
ひとつの地方自治体のみで探すことは無理だと思う。
ネットワークが必要であろう。
だが「 宛てどころに尋ねあたりません」が滅多にないことであるなら、アンテナの感度を上げ、もう一歩踏み込むことができなかったのか。
やる気がなかったのだろう。
仕事が増えるのが、いやだったにちがいない。

湯浅誠は、「 反貧困 」で、貧困とはもろもろの ( 溜め ) が総合的に奪われている状態 」だとした。
( 溜め ) とは、お金だけではない。
頼れる家族、親族、友人は、人間関係の ( 溜め ) 。
自分に自信がある、自分を大切にできる、何かできると思えるのは、精神的な ( 溜め )である。
( 溜め ) を奪われた人たちは、追い込まれ、精神を病む。ひとり親家庭で、親が精神を病めば、子どもたちの発達は保証されない。

国立社会保障研究所の分析によると、19歳以下の子どもがいる母子家庭では、57%が貧困層だ。
このような社会状況の中で、「 滅多にない 」形で虐待事件が起きている。

その後、芽衣さんは子どもたちを連れて、名古屋のキャパクラで働き始める。
自分ではなく、あおいちゃんが寂しがっていると、強く感じたという。

西澤氏によると、「芽衣さんは、あおいちゃんの上に、幼児期に寂しい思いをしていた自分を重ねていた。
投影同一視の状態だった。
共感というのではなく、自分自身をそこに見ている。」

2人の子どもを、夜間託児所に預ければ、週5日で月に10万、寮は6万、他に髪のセット代、ドレス代、営業電話やメールのための携帯電話代が月に5万はかかるという。
収入は、時給3000〜5000円月に30万稼いだとしても、手元にほとんど残らない。
丁寧だった子育てが、環境で変わる。

警察記録はネグレクト予見

3人で暮らし始めて2ヶ月後、22時愛知県警中警察署に、幼い女の子がマンション3階の通路で泣いているとの通報があった。
あおいちゃん。警察はマンションすべての家を回り、特定した。
23時過ぎに署に電話が入り、コンビニに行っていたと芽衣さんが引き取りに来た。
警察は、家に帰すも、翌日「 将来、育児放棄等に発展する可能性がある 」として、児童相談所に、文書通告している。
これを受けて、児相は区に、住民登録、児童手当、児童扶養手当、保育所にいれているかを問い合わせている。
住民登録なし、健康記録もないとの回答を得ている。

当時の、名古屋市中央児童相談所相談課長の見解

虐待とは判断しなかった。
虐待の初期対応ではなく、生活支援とした。
1週間後電話する。
芽衣さん 「 困っていることはない。引っ越してまだ住所がわからない。」
それっきりだった。
担当者は1回訪問、6回電話。
中央区の要保護児童対策地域協議会の実務者会議で報告され終結が決まる。

芽衣さんは、法廷で、児童相談所からの電話はなかったと言った。

芽衣さんは元夫とは連絡をとっていた。
名古屋で二人の幼い子どもたちを連れて、水商売をしていることを夫も、その両親も知っていた。
だが手助けを申し出ることはなかった。
公判で、女性裁判官が、夫に、「 託児所にいくらかかるか把握していたか」と尋ねると、「考えなかった」と答えている。
夫の両親
「生活が苦しいなら、芽衣の方から連絡があると思っていました。芽衣からは、一度も連絡がありませんでした。」

夫に芽衣さんから、「インフルエンザにかかったから、子どもたちを預かってほしい。」と電話があった時、夫はそれを断っている。
公判で、芽衣さんは、「私たちは、なかったことにしたいんだ。」と思ったと言っている。

父親も、子どもたちを預かってほしいと芽衣さんから頼まれて、それを断っている。
芽衣さんは、誰も助けてくれないとの思いを募らせた。
その後も芽衣さんは、環くんの一歳の誕生日前に、元夫を動物園に誘って、断られている。
「みんな、私たちのことを、なかったことにしたいんだ。」

この日を境に、生活は急変していく。
その1週間後、お客と始めて付き合う。
子どものことは言わない。
一泊二日で泊まりに行く。
子どもたちは、妹に預けた、おばあちゃんに預けたと言っていたという。
「 仕事に行く時間になると、子どもが熱を出す。託児所に預けられない。医者からは、ママと離れたくないから、熱をだすのではと言われた。」

裁判で、芽衣さんは、孤独な子どもたちを見るのが辛かったと、繰り返し繰り返し言った。
自分を重ねた、あおいちゃんの状況がいたたまれず、その姿を直視できなかった。
男と遊んでいる時間だけ、困難を忘れられる。誰も理解しない。

そんな芽衣さんが、精一杯の勇気を奮って名古屋市中央区役所の番号を104で調べ、泣きながら電話をした。
「 子どもの面倒が見られない。」
職員は、名前と住所と電話番号を聞き取った。
職員は児童相談所の番号を教え、かけ直すように言った。
児童相談所に電話している。
「一度来てくださいと言われました。」
しかし、具体的な来所日時の指定や、段取りについての話はなかった。
「 やっぱり誰も助けてくれない。」このやりとりについては、記録さえない。

行政への、この種のメッセージは多い。
踏み込むべきか、さらりと流すべきか神経を研ぎすませて、状況に当たるそうな。
神経を研ぎすませて、ほとんどをさらりと流すんだろう。

芽衣さんは、母親であることから降りることができなかった。
駄目な母親でもいいと思えば、助けは呼べただろう。
あおいちゃんを育てることで、愛情に恵まれなかった自分自身を育てようとした。
だからこそ、孤独に泣き叫ぶ子どもに向き合うことができなかった。
人目に晒すことはできなかった。
母として不十分な自分を、人に伝えられず、助けを呼べなかった。

懲役30年は妥当か。

6人の裁判員の中には、30代と50代後半の女性。
懲役30年という量刑は、児童虐待としては、突出して重い。
争われたのは、殺意があるかどうか。
なかったとすれば、保護責任者遺棄致死罪となり、最長量刑は20年。
精神鑑定を行った森医師は、「本件当日」の芽衣さんに「 意識障害はなかった。」とした。
弁護側は、「見捨てられた幼少期の自分の姿を避けるのに必死で、子どもたちが死ぬことが、意識化される状態ではなかった。」と主張した。
判決は、鑑定により、「 殺意はあった 」とした。

しかし森医師は、精神科医ではあるが、虐待の専門家ではない。
一方西澤氏は、今回心理鑑定を行っているが、早くから虐待問題を扱い、虐待の臨床経験は膨大である。
西澤氏は、「 殺意はなかったと、断言できます。」と言い切っている。
つまり、裁判では、児童虐待に関する臨床的な知見は、重んじられなかった。
「 解離性の病理 」や「 虐待 」についての知識があれば、読み解ける、芽衣さんの行動は、そうでなければ、理解しがたいほどの残虐行為だ。

上告したが、最高裁は2013年3月25日付で、上告を退ける決定をした。
懲役30年の判決は確定した。

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