すぎしこと いまさらいうて かれむぐら
枯れ葎、夏の間猛々しく育った雑草が秋の終わりになりすっかり枯れて、人が足を踏み入れることがむずかしいくらい絡まり合ってしまっていることです。
どこにでもあります。
人は誰しも人生の岐路に立つことが何回かはあると思います。
往々にしてまちがう。
どうもそれは、本音をさぐると、いろんな欲から来るような気がします。
すぐに戻れば間に合うものを、まちがいを修正しようとして、さらに過ちを重ね、その度に深みにはまるような。
そして自分の選択が、大きなまちがいだったことを、ハンマーでアタマを殴られるようにして気づくと、今度は、後悔と懺悔の心の遍路に出る。
それはもう自己満足の旅にしか過ぎないのです。
関係のあるような無いような、まだ遠い先のことを憂えての、よけいなお世話の小さな話ですが、
ウチの近所のマンションに住む男性が、毎日同じ時刻に小学低学年の女の子と手をつないで出勤します。
パパは携帯を離さず、歩きスマホ状態です。
遠く時が過ぎてから気づくのでしょうか。
この時間が宝物であることに。
小さいムスメと手をつないで出勤できる、ささやかなように見えて、大きな幸せな時間を与えられていることに気づかず、大切にしなかった己の愚かさに、愕然とすることがあるかもしれない、無くてすむかもしれない。
幸せとは、遠く過ぎ去ってから気づくもののような気がするのです。