ちくごがわ にかいにおけり でみずぶね
聞くところによると、昭和27、28年ごろ大水により、筑後川の堤防が決壊し
たいへんな水害になったとのことです。
旧久留米市役所には、「当時はここまで水に浸かりました」のラインが引かれておりました。
人の背丈を、ゆうに超える位置でした。
その教訓で、古い家には、下からカギをはずすと、天井がナナメに下りる仕組みが作られ、木製の舟が日ごろは目につかない場所に保管されていました。
今のように、ゴムボートなどない時代の人々の知恵なのでしょう。
忘れるほどの年月が経った今、またもや大きな水害です。
筑後導水が出来、大量の水が福岡市まで、飲料水として運ばれるようになり、当時とは比較にならないくらいの大がかりな護岸工事がなされた今に。
穀倉地帯であり、有数の果物の産地です。
田植えの終わったばかりの、ようやく育ちはじめた苗や、ぶどうやモモ、梨の被害はいかばかりかと案じます。