残 留 の 孤 児 の 旅 立 ち 沙 羅 の 花

ざんりゅうの こじのたびたち しゃらのはな

沙羅双樹の花の色、原産地はインドとされる。
名前は聞いたことがあるけれど、実際にはなかなか見ることがありません。
釈迦が生まれたところにあった三本の木のうちの一本と言われているとか。

中国残留日本人孤児。
終戦直後、満州、朝鮮、ロシアの国境あたり、大きな河が凍るという極寒の地に残され、国交がないため帰国できなかった日本人の子どもたちのことです。
なかには裕福な中国人に育てられた人もいたかとは思うのですが、ほとんどは売り買いされたり、たらい回しされたり、必死で生き抜いた人びとです。
本当の親とは、はぐれたり、捨てられたり。
信じられないことは、終戦当時14歳未満であることが、認定の条件だったこと。
14歳以上は、自分の意思で残り留まったと解釈され、なんら援助の対象にならなかったと記憶しています。
井手孫六さんの話を聞きに行って、知ったことです。
帰ってきた多くの残留孤児は、親と離別した時期、幼すぎて、なかにはほんとに赤ちゃんだった人もいて、身元を探すのに手間と時間をとり、さらに親族と判っていても面倒だと名乗り出ない人もいて、最初の頃こそ、身内に引き取られる人が多かったものの、第◯次と、回を重ねるごとに判明は難しくなりました。
人違いだったことが後になってわかった、気の毒な事例もあったと新聞記事にありました。
3ヶ月間、所沢を拠点とした全国7、8カ所の教育機関というか、日本語と日本の習慣などを教える定着促進センターに引き取られ、学校のように、時間割のもと、日本語を学んで、其処から身元引き受け人のもとへ引き取られていったと聞きました。

言葉が通じない。
3ヶ月間の訓練では、日常会話は難しく、育つ過程で勉強などしたこともない、幼い頃から労働に明け暮れた人が、急に外国語を習得できるものではなく、またさらに習慣の違いは埋めようがないほど大きかった。
例えば、同じ布で、手を拭き、食器を拭き、テーブルを拭き、床まで拭く。
所構わず痰を吐く。
唾を吐く。
買い物に行けば、パックされている肉や魚を指で強く押し、どれを買うか慎重すぎるほど時間をかけて吟味する。
公共の物を大事にしない。
定着センターの公衆電話は、硬貨以外の物を突っ込むため、何度修理してもすぐ壊す。
親類縁者にも、ご近所にも、次第に距離をとられて、孤立してしまう家族も多かったようです。
それもこれも自分のせいでも、努力不足でもないのです。
食べるに精一杯の環境でここまで生きて来たのですから。

「中国に居ればよかったのに」
日本人がよく口にした言葉ですが、これはもう理屈ではないのです。
彼らの、父母の国、自分の国に帰りたい想い、望郷の念を、理解しないと始まらないと思ったものです。

最後の孤児が帰国してから、もうどれくらい経つでしょう。
福岡県では、宇美町の、福岡県後保護指導所という、そのむかし大流行した結核の患者が、治癒したものの、入院期間が長かったため、社会復帰のためしばらくの期間を過ごすために建てられ、長いこと使われてなかった施設がありました。
そこが、定着促進センターとして使われました。
今では、立ち入り禁止のロープや立て札で、厳重にロックされた状態です。
奥の温室のような所に、沙羅の樹があったこと、この季節になると、思い出します。