爆心地から620mのところにある、故永井隆博士が晩年二人の子供と暮らし、平和の尊さを執筆という形で世界に発信し続け、43才で亡くなったと言われる二畳一間の木造家屋。
浦上の信者が協力して建てたとのこと。
博士の生きる指針とされる「己のごとく隣人を愛せよ」からこの名が付けられたと聞く。
原子野を「花咲く丘」にしようと、九州タイムズ社からの5万円をもとに、桜の苗木1200本を山里小学校、純真女学園、浦上天主堂、病院、道路に植えたとされる。
この桜はすでに代替りしているが、今も満開の桜が浦上の丘を見守っている。