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雁の寺(1)

「雁(がん)の寺」水上勉作
1961年第45回直木賞受賞作品。

鳥獣の画を描いて、京都画壇に名をはせた岸本南嶽が死んだのは昭和8年の秋である。
岸本家は孤峯庵の檀家であり、和尚は慈海和尚と呼ばれていた。
慈念という十二、三歳の小坊主を連れていた。
死んだ岸本南嶽には、里子という妾がいた。
以前その里子を連れ、孤峯庵を訪れ、自分が描いた襖絵を見せて歩いたことがあった。
庫裏の杉戸から本堂に至る廊下、下間、内陣、上間と四枚襖のどれにもその雁の絵は描かれていた。
襖は金粉がちりばめてあり、根元の大きな古松が、地を這うように大きく枝をはっていた。
針のような葉が一本一本克明に描かれていた。
雁の群れは、その枝にとまったり、羽ばたいたりしていた。
飛び立ちかけて白い腹を夕空に輝かせている一羽もいるかと思えば、松の幹の瘤の一部のように動かずにすくんでいる一羽もいた。
子の雁もいた。
口を開けて餌を母親からもらっているのもいた。
それらの幾羽ともしれない雁は、墨一色で描かれていたが、一羽とて同じ雁ではなかった。
雁は生きているごとくに見えた。
これは岸本南嶽が、精魂込めて描いたものだった。
「わしが死んだら、此処は雁の寺や。洛西にひとつ名所が増える」
慈海には妻がなく、岸本南嶽死後、慈海は里子の世話をするようになる。
すでに匿女は大っぴらであった。
慈海は好色だったため驚く者はなかった。
里子にとっても悪い話ではなかった。
慈海の妻になれば、まず喰うに困ることはない。
寺には檀家も多かった。
元の中居に戻って、昔の苦労をするのも億劫だった。
「南獄に頼まれてのう」慈海がそう言って寄ってきた。
しかし慈海に軀をゆるそうとした瞬間、障子にうつった影はなんだったのか。慈念だったかもしれない。
鉢頭の大きな小坊主の影はすぐ障子の影に回り、里子の酔った脳裏から消えた。
慈海の性欲は南獄とは比べものにならなかった。
里子はそのことに別に嫌悪は抱かなかった。
馴染めないのは、小僧の慈念だった。
この少年は、頭が大きく、軀が小さくいびつだった。
10歳のとき、母親から離れてこの寺に来たと聞いた。
よくもまあ、小さい子をこのような寺へ出したものだ。
そういえば、慈念の引っ込んだ奥目のどこかに、哀しみに満ちた日があったことを、里子は思い出した。
実際、慈念は、孤峯庵では孤独であった。
庫裡の玄関横の三畳の板の間が慈念の部屋になっていて、奥に一畳だけ畳が敷いてあり、柳行李をひとつ足元に置き、木綿地の蒲団を敷いて寝ていた。
三畳の窓は、慈念には手の届かないほど高い格子の一方窓で、陽は一日三時間ほどしかささない。
本堂の屋根に遮られていた。
格子縞になって入ってくる光の中で、慈念は、日課の観音経を写している。
慈念の日課は、朝5時起床、洗顔、勤行、飯炊き。
それから庫裡の台所に茣蓙を敷いて朝食。
8時半に寺を出て、山道から鞍馬口、千本通りを通り、大徳寺の西隣にある中学に通う。
この中学はもともと禅林各派が徒弟養成のために経営していたものが、学令によって中学になったもので、学校教練もあった。
制服にゲートルを巻いて登校しなければならなかった。
山登り、掃除、薪割り、草取り。
雪隠に糞が溜まれば汲み取りもしなければならない。
日没とともに終わり、6時に庫裏に戻る。
食事の用意。
終わるのは8時。
それから経文の筆記。
就寝10時。
普通の家の子供ならば、まだ親に甘えている年頃で、決められたこのような日課を判で押したように守っていくのは、辛労であろう。

冬があけて、まだ風の冷たい3月はじめ庭の杉苔のあいまに、小指ほどの草が群がり生えてくる。
放置しておくと、無数に繁殖し、杉苔を傷めてしまう。
慈海は作務には厳しかった。
慈念は学校から帰れば、このごろは草取りであった。
冬の土を割って出てくる草は根が強く、慈念の小さい指の力では取れない。
だから慈念は竹で作った小刀を使う。小刀を地面に差し込み、親指で草を押さえ、根切りしながら、一本ずつ抜いていくのである。

ある日中学の教師が寺に来た。
慈念が届けも出さずに頻回に学校を休んでいるという。
教練がどうしても嫌だと泣く。
軀が小さいのに、重い鉄砲を持たされるのが辛いと言う。
人よりうんと軀が小さい。
中学校教程では、標準背丈の生徒を想定して、教範を作っている。
慈念は小学校3年生くらいの背丈しかない。
教師は、困った子どもを預かったという表情で、辛抱して通学するようにと紋切り型の言葉で結んで帰って行った。

里子は庭で慈念を見かけた。
池を見つめていた。
こちらには気づいてはいない。
突然、掌を頭の上にふりあげたと思うと、水面のに向かってハッシと何かを投げつけた。
鉢頭がぐらりと揺れて、一点を凝視している。
灰色の鯉が、背中に竹小刀を突き刺されて水を切って泳いでいく。
大きなシマ鯉だった。突き刺された背中から赤い血が流れ出ていた。
血は水面に毛糸を浮かべたように線になって走った。
何をするかわからん子、里子はそう感じた。
ある日のこと、慈念をこの寺に連れてきた田舎の和尚が訪ねてきた。
慈念は捨吉と呼ばれていた。
和尚は捨吉に会い、苦労して大人になったことを見抜いた。
里子は好奇心から「慈念はん、大きゅうならはりましたやろ」
「大きゅうなりました。行儀も覚えましたしな。
みまちがえました。」
「去年の春には得度式が済んだ。
葬式もするし、棚経にもゆける。
しかし中学がのう、卒業できるかどうか瀬戸際や。
教練が嫌や言うてなあ」
「そらまた心配かけますなあ」
そう言ったが、何かほかのことを考える顔つきだった。
里子「和尚さん、よかったら慈念はんの小さいころのことを聞かしてくれはらしませんやろか」
和尚はひと口飲み干してから、
「妙な子でしてな。
あの子は阿弥陀堂に捨ててありましてな。
阿弥陀堂というのは、底倉の部落のはしの乞食谷にあるお堂でしてね。
ここが冬になると、物乞いの宿になりますのや。
堂には大きな木造の阿弥陀さんが祀ってあるんですが、ちょっとはお供え物もありますのや。
お供え目当てに腹へらした乞食どもがあつまります。
その堂に、お菊ちゅう32、3でっしゃろかな。
毎年冬になると、餅もらいに来る乞食女がおりましてな、この女が、その年にはらみましてな。
雪の深い年で、雪の中で産をするちゅうんで、村の者は蒲団を運ぶやら、湯を沸かしてやるやら大騒動だったです。
男の子だったです。
つまり誰がおとっつぁんやら、わかりゃしませんのや。
名乗り出る男はおりゃあせん。
困りましてな。
お菊は乞食ですさかい、また春がくると他所へ物乞いに出にゃならん。
誰かこの子を預かる者がおらんかと言うとりますと、角さんが、よっしゃ、わしが養のうたると言いましたんや」
ところが角さんには五人も子がおります。
角さんの女房がいやいや乳を飲ませて育てたは育てたんだが、子どもらはあのアタマを軍艦アタマちゅうて虐めました。
賢いことは、村いちばんでしたがな。
それからお菊は、春になっても夏になっても物乞いに来なくなりました」

(2) に続く

文藝春秋 (2012-09-20)
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