主人公は、59歳になる未亡人。名前は鏡子。
子どもはいない。
夫に先立たれ、親はすでに亡く、兄弟姉妹もいない。
夫と作り上げた家庭は、唯一にして絶対の心の拠り所だった。
深い喪失感にさいなまれ、死ぬことすら考えた鏡子を救ったのは、地元軽井沢の隣町在住の、存命中は多くの読者を魅了した作家の別荘を記念館として一般に公開することを決めた、記念財団だった。
戦後間もなくは多彩な作品を発表した文士の著書も時代が変わるにつれ、次第に読まれなくなり、特に若者には全く受け入れられない存在へと変貌していった。
開館以来、数人のスタッフで運営されていた記念館も、来館者減少のあおりをくらって、人件費縮小を余儀なくされた。
記念館が管理人兼案内人を募集していることを、スーパーに置かれたタウン誌で見た鏡子は、喪失感と抑鬱状態から抜け出すため、そして生活のため働くことを余儀なくされていたことから、面接を受け採用された。
午前中来館者があることはまずなかった。
掃除をして、「開館しています どうぞお入りください」の札を出し、パソコンを立ち上げ、必要なチェックをするともうすることはなくなった。
郵便物が届くのは午後、問い合わせなどの電話がかかるのも大抵午後で、それまでは鏡子の自由時間となっていた。
鏡子は幸いこの文士の熱烈とも言えるほどのファンであり、著作を読んだり、彼の集めた美術全集を眺めたり、考えごとをし窓の外の空を眺めていられれば、一日誰とも話さなくとも平気だった。
この生活も、もう8年目に入る。
鏡子が時折、それまで感じたことのなかった異様な精神状態に陥るようになったのは、2年目の暮れあたりからである。
夫に死なれてからずっと、心身の不調は長きにわたって続いていた。
もがいてももがいても出口の見えない霧の中を歩いているような感覚。
死ぬのに適当な、括れるにふさわしい枝を、梁を探しまわったりもした。
見つかると、不思議な安堵感に包まれた。
わけもなく涙が溢れてくることなど、しょっちゅうで、涙は出ずに、激しい嗚咽だけが込み上げてくることもあった。
ちょうど更年期の真っ只中で、夫に先立たれた。
たったひとり、同い年ということもあって、気心の知れた会話を交わせるようになった康代は、そのころの鏡子の良き相談相手であった。
康代もまた似たような症状に悩まされており、互いに状態の悪さを打ち明け合って、気がまぎれることも多かった。
だが2年前の暮れあたりからで鏡子を襲うようになった不調は、そうした習慣的に続いてきた不調とはまったく異なるものだった。
眠れないことが、すべてをさらに悪いほうへと向かわせた。
夫の死に伴うこと、それとは関係のない雑念。
足元がふわふわとし、買いたい商品にたどり着けないことも多くなった。
世話好きで、ときに過剰と思えるほど母性的な側面をみせる康代は、その実、決して必要以上に他人の中に入り込もうとはしてこなかった。
学生時代の友人とは疎遠になったまま、ほかに友人と呼べる人間のいない鏡子にとって、康代は文字通り、唯一の友となっていた。
精神科受診を勧めてきたのも康代だった。
隣町に以前からある内科クリニックが、精神科を併設し、なかなかの評判だと情報通の康代の話である。
ただ毎日ではなく、週に数日、東京から来た非常勤の医師が診るという。
実際通院している友人がべた褒めだと。
「深く考えず、軽い気持ちで受けてみたら?まずはぐっすり眠ることよ」
宇津木クリニックは、鏡子の家から車で10分もかからなかった。
引き戸を開けると客人を迎えるような表情の長身の医師がいた。面長で大きな目、白髪の混ざった短髪で額は後退している。
要するに、長い時間をかけて、誠意のある診察を受け、夫を亡くしたことや、生育環境や、現在の心境や症状を納得いくまで傾聴してもらい、適切な処方で、救われ快方に向かったという話である。
その後定期的に診察を受け、一週間が二週間に、一ヶ月に一度の受診となり、もう必要ないと言われるまでに回復した。
その頃には、鏡子は医師に会えることを楽しみにするまでになっていたということ。
その先は、鏡子の勤務先である記念館に突然その医師が来訪し、次第に親密さを増し、ついには自宅に招き入れ関係を持つまでになったということ。
ここまで読んで、正直がっかりした。
精神科の医師が、患者と個人的に親しくなるように行動する、偶然ではなく敢えて訪問するなどとは考えられないことであり、もしそんな人間であれば、どうしようもない医療者である。
こんな描写をいつまで読ませるのか、著者に少々腹が立ってきたが、小池真理子がこの話をこのまま続けるわけはないとの想いから、半ば嫌々ながら読み進んだ。
鏡子にとっては夢のような日々が続き、週のうち二日は医師が泊まる生活が続いたある日、約束の夜になんの連絡もなく消えた。
何かあったに違いない、事故かもしれないと眠れぬ夜を過ごし、クリニックに行けば詳細が判ると診察をよそおい出かけたところ、急な事情で辞めた、実は医師自身心の病だったと聞かされ、納得がいかず、どうにか確かめられないか考えた挙句、週の半分は勤務していると聞いていた、横浜の医療センターを訪れる。
確かに、高橋智之という、非常勤の医師は存在した。
しかし別人だった。
自分が知っている、精神科医の高橋という男は何者なのか。
鏡子を診た病院に行かない日は、何処で勤務しているのか。
鏡子は、「彼」の正体、謎の行動について、毎日毎日一日中推理した。
「彼」にはもう名前すらない。
経歴も家族の状況も、その経歴のすべてがおそらくはみんなウソなのだろう。
ただそうしたことの繰り返しの中で、たったひとつではあったが、鏡子の中に手掛かりと呼べるようなものが残された。
「彼」は、横浜の医療センターについては詳しかった。
例えば病院に隣接してコンビニがあるということ。
病院内に食堂がなく、徒歩で行ける圏内に食事のできる店がない。
だから病院関係者だけではなく、見舞客から家族までそのコンビニを利用する。
昼食時はたちまち売り切れになる。
また「彼」は病院の構造もよく知っていた。
入り口を入ってすぐのところに、吹き抜けになった天井の高いホールがあって、そこには天窓がある。
数年前の台風の後、その天窓にカラスの死骸がへばりついて大騒ぎになった。
鏡子が訪ねた医療センターのエントランスホールにも確かに天窓がついていた。
精神科は、西病棟の二階にある。
運動不足にならないように、院内の昇り降りにはエレベーターを使わず、階段をつかっていると言っていた。
このところは、記念館にでの仕事は続けたものの、身体は鉛と化したように重くだるく、吐き気とこめかみの痛みは止むことはなかった。
ネットの中を浮遊し、ぼんやりすることが多くなった。
やがて、精神科に通う患者たちや、精神的にアンバランスになっている人たちのブログやスレを読むようになった。
常用している薬に対する不安、効き目、病院の評価、将来の心配などで溢れかえっていた。
健康な人間には想像もつかないようなやりとりを際限なく続けていた。
抗鬱薬の減薬に失敗し、酷い目にあっている。
もう死にたい。
サインバルタ、ジェイゾロフト、アモキサン、ロヒプノール聞いたこともない薬の名前も目についた。
もはやデパスやメイラックス、マイスリーは、ありふれた頭痛薬や胃薬、もしくは子供に飲ませる虫下し程度にしか語られていない。
心の不安定さを嘆き、薬を飲まなければ、働くことはおろか、生活することもむずかしい人々は、ネットの中で夜もなく昼もなく嘆き、叫び続けている。
ふと思い出して、「マリリン・モンロー」を検索してみた。
「彼」から聞いていた女優モンローのいかにも不安定だったという、秘められた精神状態の話を思い出したからである。
中でも、モンローに専属の精神科医がついていた、という話は印象的だった。
どんな治療をどんなふうに受けていたのか。
そもそもモンローという女優は、どんな精神状態の中でどのように苦しんでいたのか。
モンロー関連の情報はネットに無数にあり、好きなだけ閲覧できた。
野球界のスーパースター、ジョー・ディマジオとの結婚と破局。
劇作家のアーサー・ミラーとの結婚。
彼女の激しく破綻した精神性に手を焼いて、結局はうまくいかなかったこと。
モンローの父親は、誰かわからないこと。
母親はアルコール依存症に加えて統合失調症を患っており、彼女は誰からも愛されずに育ったこと。
最晩年のモンローの精神分析治療を行っていたのは、ラルフ・グリーンスンという、フロイト派の精神科医であったこと。
どの医師ともうまくいかなかったというが、グリーンスン医師とだけはきわめて良好な関係を築いた。
モンローが自殺だったのか、他殺だったのかには、鏡子はそう関心はなかった。
知りたいのは、モンローの信頼を得て、最後まで寄り添った医師ラルフ・グリーンスンという人物についてだった。
「彼」はモンローという女優を、あくまで精神面でのみとらえていた。
「彼」はモンローが抱えていた内面の暗がりにこそ興味を持っていた。
医師とモンローの関係について書かれた本を読んだからといって、姿を消した謎の男の実体が明らかになるはずもない。
「彼」は実際にモンローを診察したわけでもなく、生きているモンローを知っていたわけでもない。
ただ単に巷間囁かれ続けたモンローのいびつな精神性に強い興味を抱くあまり、自分も精神科医になった、というだけの話にすぎない。
「彼」がいったい、モンローの何に、どこに惹かれていたのか、何がそんなに深く「彼」を共鳴させたのか。
その一端でも覗くことができれば、「彼」自身が抱えていた心の闇の輪郭を指でなぞることができるかもしれない。
そうなったら、一歩進んだ理解が、自分の今を少しでも救ってくれるかもしれない。
ネットで再度モンローを検索した。
「まりりんが死んだよ」
「マリリン」が「まりりん」と平仮名になっていて、思わず目を留めた。
クリックしてみた。
「まりりん」が、女優モンローのことではないことには、すぐ気がついた。
「まりりん」は日本人で、まだ若く地味だが、ある程度の知名度があり、一部に熱狂的ファンを持ちながら、同時に嫌われたり揶揄されたりしている。
投稿者たちはほぼ全員「まりりん」がその年の11月25日に、横浜市にある雑木林で首を吊り、自殺したことを話題にしていた。
「川原まりりん」というのだと知った。
首吊り自殺、病気、精神、薬、病院、デブ、妖怪、ブタ、哀れといった言葉が散らばっていた。
「精神病院に入ったこともあると思われ」
「それって、横浜の医療センターってホント」
「親戚が入院してて、エレベーターで、川原まりりんと一緒になった。
すげえデブだった。
化粧してなくてザンバラ髪。妖怪変化みたいだった」
「川原まりりんは独身、子供なし。
たしか父親と二人暮らしだったはず。」
「忘れられた芸人」
「芸風、古すぎ。
あの有名な地下鉄の換気口でのマリリン・モンローのものまねだって、何度もやられたら飽きる」
「川原まりりんのモンローは、はっきり言ってデブの腹踊りでしかなかった。見世物クラス。
痛々しかった」
「自殺するほど苦しんでた人に、そういうこと言う奴は死ね」
鏡子は、冷静になれと自分に言い聞かせるのだが、難しかった。
混乱した。
どう考えをまとめればいいのかわからなくなった。
横浜の医療センターが出てきたのは、ただの偶然。
世の中には信じがたい偶然というものがある。
たまたま雑木林で首を吊り自殺した気の毒なタレントまがいの女が、父親と二人暮らしで、精神を病み、横浜の医療センターに入院していた、というだけの話ではないか。
ウイキペディアではさらに詳しいことが確認できた。
「川原まりりんはお笑いタレント。
女性ピン芸人。
東京都出身。
本名、高橋美緒。
小劇団「ファンキー・モンキー・ベイビー」所属。
身長160センチ、体重は自称95キロで、マリリン・モンローのものまねを披露し、人気を博した。
動画投稿サイトで検索すると、何本かの動画がヒットした。
「川原まりりん」が画面いっぱいに肉体をさらし、踊っていた。
胸が深く開いた白いドレスを着て、地下鉄の換気口の上に立ち、お尻を突き出しながら、風でめくれあがるスカートを押さえている。
そんなポーズをとりながら、別の映画「お熱いのがお好き」でモンロー自身が歌って大ヒットした「あなたに愛されたいのに」を歌っていた。
大きな身体からは想像もつかないような、愛らしくもべたべたした歌い方で歌っている彼女は、モンローの扮装をしているだけの巨大な肉の塊であった。
腰をふりふり、全身をくねらせ、驚くことにそれが奇妙に性的な印象を与えている。
だが一方で、その姿かたちがもたらす強烈な違和感こそが、観る者の笑いを誘う仕掛けになっていた。
よく見れば愛らしい、整った顔立ちをした娘だった。
「高橋美緒」
鏡子と深い仲になった、「高橋智之」は偽名だ。
「高橋美緒」は「彼」とは何の関係もないのかもしれなかった。
それでも、横浜医療センターの精神科に入院していたという情報は無視できなかった。
「川原まりりん」が自殺し、遺体が発見されたのが、11月25日。
「彼」は雇い主の院長に、非常勤を辞めたいと20日に申し出たことは、病院関係者から、顔の広い友人の康代が聴き出しており、ほぼ間違いなかった。
鏡子の家に最後にやって来て、横浜に帰ったのが24日。
その後は連絡もとれなくなってしまった。
推理は堂々巡りを続けながらも、次第に輪郭をとっていき、鏡子の気分を高まらせた。
この先、探っていくには、ひとりでは無理だった。
何からどうやって前に進んでいけばいいのかわからない。
誰かの協力・・・
鏡子の頭の中に、記念館の運営を任されている、文潮社の平井という人物の名が浮かんだ。
文潮社では、週刊サタデーという週刊誌を刊行している。
結構歴史のある週刊誌で、芸能スクープや、話題の著名人を直撃した辛口インタビュー、犯罪心理分析、健康と美容等を扱っており、それらの記事の切り口が、他社と明らかに異なっており、読者層は男女を問わず幅広い。
そんな週刊サタデーが、地味な女性芸人の自殺に注目し、記事にするとは到底思えなかった。
だが何か詳しい情報を握っている記者が、いないとも限らない。
何か知っている記者、鏡子にとって大切な情報がボツにされたというライターがいるかもしれない。
厚かましいことは承知で、記念館の責任者、文潮社の平井に連絡をとった。
詳しいことは話さず、人探しをしている。
その人は、「川原まりりん」に関係しているかもしれないこと。
平井は、探している人間が誰なのか知ろうともせず、芸能班の人間を紹介してくれた。
仕事を始めてからの知り合いだが、お互いの私生活などろくに知りもしなかった。
人と人とは、通じる時にはこのように、わずかの言葉だけで通じ合えるものかもしれないと、鏡子は思った。
平井は週刊サタデーの記者で駒田という男を紹介してくれた。
駒田は名刺を取り出し、すぐにポケットからスマートフォンを出し、素早く操作し始めながら、「ぼくは彼女の記事を書きたいと思ってたんですよ。
彼女の、モンローのものまねは、けっこう好きだったんです。
なんて言うんですか、あんなに大きな図体をしてても、本当はナイーブなところがあるんじゃないかって思わせるところがあるじゃないですか。
可愛かったし。
自殺したって聞いた時は意外な感じはしなかった。
さもありなんと思いましたね。
でも川原まりりんじゃ地味すぎて記事にできないって、バッサリ斬られちゃいまして」
鏡子は「彼」の話をした。
行方不明になった日のこと。年齢は50代。
駒田は、川原まりりんは、十代のころはむしろ痩せていたこと、両親の離婚が原因かどうかはわかりませんが、精神的に不安定で、拒食症に苦しんだ時期もあったようです。
その後はみるみるうちに太っていって、本人はそれを芸にして、ああいうものまねに移行して、それでブレイクしたってことですねと言った。
「何度か入院し、病院は横浜医療センター。
彼女の父親がね、その病院に勤務してたんですよ。
といっても医者じゃなくて、総務部所属。
その父親と連絡をとろうとしたんですが、何年か前に退職していて、所在がわからなくなっています。
名前はええと、高橋恭平。
55歳くらい。
再婚していたようすはありません。
鏡子は「彼」の正体を暴きたい、という強い想いがあった。
見捨てられた自分自身が哀れであり、また大きな謎を残したまま姿をくらました人間の不誠実さに対する怒りから生まれてくるものだった。
駒田は言った。
「貴女が診察を受けた医師は医師免許を持った人間だったのか。
そのクリニックでは、非常勤の医師を雇う時、医師免許証を確認しなかったんでしょうか。」
医師免許証は、賞状みたいに大きなもので、ふだん持ち歩くものではなく、ほとんどの医師は自宅に保管したままになっている。
必要な時はコピーを提出するのだが、たぶんコピーの提示も要求しなかったと思われる。
にせ医者・・・
「彼」の立場を想像してみた。
クリニックで大勢の患者を診ている時はもちろんのこと、「彼」を雇っていた院長や看護師たちの前でのふるまいにどれほど神経をすり減らしたことだろう。
処方箋を書く時はどうだったか。
そもそもなぜ「彼」はあれほど本物の精神科医のように、いやそれ以上に名医であるかのようにふるまうことができたのか。
視線、言動、細心の注意を払って発せられる言葉遣いの数々、そのすべてが熟練の専門医にしか見えなかった。
これほど信頼して心の内側に潜んでいるものを打ち明けることのできた相手は、亡き夫を含めかつてひとりもいなかった。
康代の話では、「彼」の評判はすこぶる高く、遠方からも患者はやって来て、治療を受け、快癒していた。
処方された薬はどれもよく効いた。
なにより、患者に向けて注がれる視線や、うなづき方のひとつひとつは、長年の経験によって培われたプロフェッショナルのそれであった。
鏡子の家に、その手紙が届けられたのは、1月半ば。
厚手の白い長封筒。
試供品入りのダイレクトメールだと思った。
差出人の名は「高橋恭平」
ワープロ機能を使って打ち込まれた手紙がA4の白いコピー用紙10枚以上はありそうだった。
すでにこの世のものではなくなった男からの手紙ではないかと思った。
前略
高橋恭平と言います。
自分が「たかはし」という姓でなかったら、こんな恐ろしいことに足を踏み入れようなどと考えつかなかったかもしれません。
貴女にこれまで話した私の過去、年令、学歴、離婚歴などは偽りのない事実です。
医師の資格がないこと、それに関係した幾つかの作り話を除いては・・。
大学卒業後、製薬会社に就職しました。
26のとき、行きつけの店でアルバイトをしていた女性と結婚、長女が生まれたこと。
妻が慣れない育児から鬱病を患い、結婚生活がうまくいかなくなったこと、病気が快復に向かった頃、妻が他の男に心を移し、協議離婚に至ったことも、貴女に話した通りです。
離婚したとき、娘は8歳でした。
新しい男との間に赤ん坊を身ごもった妻は、親権を放棄してきました。
そこから娘との二人暮らしが始まったのです。
名は高橋美緒です。
5年後、私は会社の人間関係がうまくいかず転職を考えました。
ちょうど住んでいた川崎市のマンションからも近い、横浜医療センターに採用されました。
40歳のときです。
美緒は、歪んだ家庭環境で育てられてきたせいか、あるいは母親ゆずりだったのか、もともと精神面がアンバランスな子でした。
でも学校ではほとんど問題を起こさず、成績もよく、協調性もありました。
反面、自宅では過食と拒食を繰り返し、信じがたい量の食べ物を食べては、無理やり吐き戻すということをしていました。
何があろうと、私は娘の味方で最大の理解者であろうとしました。
医者に診せようと思わず、自分の力で治してみせると。
愚か極まりない父親でした。
しかし高校に入ったころから少し元気になり、将来はコメディ女優になりたいと、異様なまでの熱意でした。
小さな劇団を見つけ、実に楽しそうに日々を送っていたこと、今更ですが、懐かしく思い出します。
年上の劇団員と恋愛し、妊娠、出産しました。
しかしその赤ん坊が三ヶ月になったとき、一緒に風呂に入っていた娘の亭主が、赤ん坊を溺死させるという悲劇が起こりました。
その出来事の後、娘は一挙に精神のバランスを崩してしまった。
ただちに離婚、私との二人暮らしに戻ったかと思うと、鬱病を発症。
その後過食症になりました。
朝から晩まで食べ続け、吐き戻すことはしなくなり、みるみるうちに太っていきました。
「川原まりりん」という芸名を自ら付け、その太った身体を、芸の道具にしようと娘自身が思いつきました。
私は貴女に、精神科医になろうと思ったのは、マリリン・モンローの心の病に興味をもったからなどと、愚かで恥ずかしい嘘をつきました。
娘の症状は次第に重くなっていきました。
私の勤務先、横浜医療センターの精神科に通わせていました。
信頼できる先生でしたが、いわゆるカウンセリングのようなことは、時間が足りないため、満足にやってもらえない。
その分私が専属カウンセラーのようなことをしていました。
日がな一日観察し、言葉を受け止め、いつ果てるともなく続けられるモノローグにつきあい続けました。
私が精神科の薬に詳しくなったのも、副作用や症状、状態の変化など、専門知識をどんどん身につけていったのも、すべて娘がそのような状態だったからです。
そのうち病院勤務は難しくなってきました。
仕事に出ている間、美緒が何をするかわからない。
仕事を放って自宅に戻ると、部屋はもぬけの殻で、各所を捜しまわり、病院にも戻れず、結局辞めざるを得なくなりました。
美緒はもう入退院を繰り返すしかなくなっていた。
入院も通院も、医療センターでしたが、他にも人づてに聞いた評判のいい精神科医を受診させるため、遠く九州や札幌まで飛行機で連れて行きました。
保険のきかない診察も受けさせたため、蓄えはたちまち底をつきました。
精神科医になりすまし、経済的な困窮状態から脱しようと思いついたのは、美緒が何気なく口にしたひと言がきっかけです。
「パパはもう、精神科医になれるね」
愚かにも私は、医者のアルバイト情報を検索しました。
東京近郊はまずい。
小さな個人病院のほうがいい。
見つけたのが、あのクリニックでした。
勤務は木曜日から土曜日まで。
なんであんな大胆な真似ができたのか。
娘のために、なんとかして生きていかねばならない。
必死でした。
昔、製薬会社に勤めたということもありますが、それ以上に娘のありとあらゆる不可思議な症状と、それに応じる主治医とのやりとりにつきあってきた私には、あらかたのことが知識として刻まれていました。
入退院を繰り返していた娘を通して、入院中の患者たちの様子、それに応じる医療従事者、医師の言動にも詳しくなっていました。
鬱以外の病気も、そのほとんどが大なり小なり鬱を伴うことが多い。
どこからどこまでが鬱で、どこから先が別の病名をつけるべきなのか、そのあたりは専門医にとっても未分化に違いなく、だからこそ私が娘相手に行ってきたカウンセリングは、どんな場合でもそれなりに功を奏するだろうと、確信に近い思いもあった。
私もまた、娘同様心が病んでいたとしか言いようがない。
仕事を探すなら、ハローワーク。
ただあの時は、月に80万、年間一千万への関心しかなかった。
そして何より、娘と過ごす時間を確保したかった。
水曜の晩、東京を発って、土曜の診察を終えてすぐ帰路に着くことが可能だった。
娘は死にました。
長期に渡って希死念慮を断ち切れずにいた結果だったのでしょう。
精神を病んだ患者たちには、不思議な静けさがあります。
脈絡もなく喋り続ける人もいるし、寡黙で、うまく話せない人もいますが、みんな、思いの外論理的なのです。
健康な人と話すよりずっと、会話のキャッチボールがうまくいくのです。
私のにわか知識では判然としない症状を呈する人もいました。
しかし彼らはみな、優しいのです。
生きることに誠実なのです。
真面目なのです。
娘の美緒同様に、地を這うような状態にあって、それでも懸命になって生きようとしている彼らを相手にしながら、私は少しずつ私自身が救われていきました。
木、金、土の「診察」以外は、許される面会時間のすべてを娘と共に過ごし、残った時間は精神科医療の勉強をしていました。
愚かにも、にせ医者なりの知識をさらに蓄えようと努力しました。
そして貴女という存在に助けられながら、嘘で塗り固めた毎日を送っていた私の暮らしにもピリオドを打たねばならない時がやってきました。
娘の状態が一気に不穏になったのです。
いつ何が起きてもおかしくない。
自分もまた、どんどん精神状態が不穏になっていると自覚しました。
「感応精神病」
長く共に暮らす者同士、どちらかが病んでいると、もう片方のそれまで正常だったほうまで、引きずられて似たような状態になってしまう。
そして院長に、体調不良を理由に、退職を申し出たのです。
病院に戻った時、娘の姿はありませんでした。
もう騒ぎになっていました。
翌日、この世のものではなくなった娘が発見されました。
閉鎖病棟に入れればよかったのか。
死なずにはすんだだろう。
閉鎖病棟の想像を絶する重苦しさが、娘をもっと別の形で無残な死に追い込んでいただろうと思うのです。
自宅に一番近いコンビニの、顔馴染みになっていたパートの店員が、週刊誌の記者が周辺取材をしていると教えてくれました。
「川原まりりん」のことではなく、父親である私のことを。
私はにせの精神科医として金を稼ぎ、にせの診療を続けたケチな悪党ですが、貴女と過ごした時間だけはかけがえのないものでした。
だからこそ、これほど静かな気持ちのまま自首することができるのだと思います。
記事が出た。
「モンローの父に判決! 無免許で精神科医の泣ける顛末」
駒田は、クリニックの院長やスタッフに取材を申し込んだところ、断られた。
だが当時クリニックに出入りしていた、製薬会社の営業マンは次のように話した。
「高橋先生とは何度か、クリニックの中で短い会話を交わしたことがあります。
物静かな、口数の少ない人でした。
どこから見てもベテランの、信頼できそうな医者でしたね。
実は僕は身内に重い精神疾患に苦しんでいる人間がいるのですが、一度だけ、ちょっとした話のはずみで、先生に打ち明けたことがあるんです。
そうしたら、先生はすごく熱心に聞いてくれましてね。
こちらが恐縮するくらいに。
精神疾患に苦しんでいる人たちは、こんな先生に診てもらえるだけで、ずいぶん救われるだろうなと思った記憶があります」
また、長野市から、高橋の診察を受けに通っていたという女性は、高橋が本物よりずっと優秀な精神科医だったと言う。
「丁寧に話を聞いてくれるし、気持ちの引き出し方もうまいし、話してるだけで気分が楽になっていくのがわかる。
薬もよくて、私はけっこう重い鬱だったんですけれど、よくなっていくのが自分でもわかりました。
無免許だったなんて信じられない。
免許があろうがなかろうが、変な話ですけど、この先また必要になったら、あの人に診てもらいたいくらいです」
高橋の「診察」を受けた患者からの健康被害の報告や、診療にからむトラブルの報告が皆無のうえ、「べた褒め」する患者も少なくない。
医療関係に詳しい専門誌の記者はこう証言する。
「医師免許をもたず医師になることはできないが、だからといって免許のある者がすべて優秀な医師とは限らない。
国家試験に合格できたのは、成績がよかったからに過ぎず、肩書きだけを掲げて、肩で風を切ってみせている医師や、ことごとく不勉強な医師、患者を人間と見ていない医師も多い。
特に精神科は、医療訴訟が極端に少なく、それがために精神科を希望する医師も多い。
大げさに言えば、失敗しようが、ほったらかそうが、悪くなろうが知ったことではないということ。
精神科医の人格のレベルは、医師全体の平均を大きく下回っていると一般に言われている。
大学病院では、自分の地位のステップアップのために、患者を利用する者までいる始末である。」
娘のために医師を演じることで孤独の中に生きていた高橋は、娘の自殺という最悪の結末と直面し、自らの手で孤独な舞台に幕を引いたのである。