夏 怒 涛 秀 吉 の 夢 名 護 屋 城

なつどとう ひでよしのゆめ なごやじょう

1592年から6年にわたって、秀吉は朝鮮出兵を行ったとのこと。

理由はいろいろ、さまざま語り伝えられているようです。

戦さが無くなって武士の働き口がなくなったからだとか、秀吉が年老いてから授かった子が亡くなったからだとか。

また、スペインが侵攻していなかったのは、当時アジアでは、明と日本だけだった。

イエズス会は表向きはキリスト教の伝道が目的のようによそおっていたけれど、本当は軍事勢力で、布教の後、軍隊を差し向け、信徒を内通者として利用するためで、朝鮮出兵は、それを防ぐためだったとか、およそ信じられない理由が、まことしやかに語られているようです。

当時の秀吉が、そんな世界的な視点で、朝鮮出兵を考えたとは、歴史を知らない人間には思えないのですが。

ただ名だたる大名が出兵に名を連ね、そこには東北の大名までもいたけれど、家康は出兵しなかったらしいです。

秀吉の死によって、この計画は途中で消滅したとのこと。

名護屋城は、海岸に近いところに築城され、この出兵の拠点とされ、かなり大がかりな城だったと聞きます。

今では城址が少し残っているだけです。

当時、大陸の陶磁器はたいへんな価値があるとされ、武将たちは競って買いあさっていたのだけれど、朝鮮から陶工を連れて来て、日本で作らせるようになったことが文化的には功績だったと、書いてある本もあります。

陶工当人が、納得の上日本に来たとは到底考えられず、拉致に近い仕業だったと思われます。

ヨーロッパやアメリカが、アフリカから大勢の人を自国に連れ帰り、奴隷として酷使したように、朝鮮から陶工だけでなく、たくさんの人を連れて戻ったものとわたしは思います。

代がかわっても、大きな苦しみが消えることはなかったと思うのです。

有田焼も唐津焼も、そうやって始まったとか。

以前、大河内山に器を求めて訪れた際、細い坂道の両側に陶器の店や、窯元が並び、山の中腹の小高いところに、決して立派ではないこじんまりとした墓が、等間隔で並んでいて、きれいに手入れされ、彼岸でもお盆でもないのに、花が供えてありました。

当時無理やり連れて来られた陶工の、望郷の念はいかばかりだったろうかと胸が痛んだものです。

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