「大阪池田小大量殺人事件」の宅間守 【訂正】

先日、佐木隆三著 「大阪池田小大量殺人事件」の読後感めいたものを書いたけれど、あまりに著者に引きずられた感が否めず、なんか自分の中で引っかかっていましたので、しばらく自分なりに考えて、訂正すべきは訂正したいと思ったわけです。

宅間自身の言葉 「素質、運、環境だけでは片付けようのない、故意に邪魔する第三者の存在で、人間の運命は決まるのだと思う。
けったいなオヤジ、非常に頭の回転のワルい、不安定な母親。
そして、ワルいランクの精子と卵子の受精で生を受け、前頭葉に機能障害の可能性があると、鑑定医も示している」と本人。

「第三者の存在」については信じがたいところだけれど、「前頭葉に機能障害」については、知識がないのでわからないけれど、否定できないものを感じるのです。
更に、人の気持ちを推し量るなどという心情は、もともと抜け落ちている。
もともと無いものを、取り戻すことなど不可能です。
生いたち以前の、それこそ障害に近いものを感じます。
永山則夫について書かれた本を読み返していて、わたしは、自分が、作家や、医者や、臨床心理士に弱い人間であること、アタマのいい、経験のある、上等の資格持ちの人間の言うことに、まるまる吞み込まれるという愚かな欠点を自分が持っていることを自覚したからです。

人に愛された経験のない、暴力と貧困のなかで育ち、もしかしたら機能障害。
人間らしい心を置き忘れたのではなく、持ったことのない犯罪者が反省などできるわけもない。

「反省の弁」は、弁護士や臨床心理士が何度も足を運び、反省を促すなか、また毎日来てくれる獄中結婚の相手に対してのリップサービスでしかなかったのではないか。
心のない人が、心を取り戻すなどできることではない。
いい例が、「サカキバラ事件」
長い年月、ベテランで優秀な専門家の先生方の指導の元、更生に向かい見守られ、次第次第に被害者とその遺族に贖罪の気持ちを強めていったとされ、釈放された結果が、あの出版である。
たしか「絶歌」
読んだというわけではないけれど、なかに収められたイラストや写真の類、本人の弁には目を通した。
自分の筋肉を誇示し、自分に酔いしれ、ハート型の黒い容器にナメクジが100匹以上。
専門家は言う。
「出所が早過ぎた」
本気で言っているのか。
ばかじゃないか。
今に至って、こんなことしか言えないのが、専門家と称される人たちである。
早い遅いの段階ではなく、何も変わっていないのだから。

宅間守は、そういうある意味個性を持ってこの世に生まれ出た。
重大な犯罪を犯した人のなかには、そうでない、人生の何処かで間違ってしまった、とても運の悪い人も多くいると思っていることに変わりはないのです。
永山則夫については、わたしは、よくわからないのですが、未だに同情を禁じえないのです。

ただ犯罪者に関わる仕事をする専門家と呼ばれる人が、大したことない、自分の望む方向に進んでいると信じたがる、ちょっとでもその兆候を感じ取ると、小躍りして喜ぶ、疑うことをしない、ただの人であることを、しっかり頭に叩き込んでおこうと反省したまでです。